PART 60

 次の瞬間、2年1組の中の空気が微妙に変わった。
「みんな、静かにしてくれる?」
 突然、薫がクラスメイト達に向かって言ったのだ。
「そろそろ、終わりにしてあげましょうか」
 え? と皆が意外そうな表情になった。

「どうしたの、薫ちゃん?」
 美智代が笑いながら言った。しかしその目は笑っていなかった。
「まだまだ、裸のお散歩をさせるんじゃなかったっけ?」
 クラスメイト達は固唾を呑んで二人の表情を見比べていた。唯一、由美だけがのんびりとしていた。

「もうすぐ、学校に電話が来る頃だわ」
 薫は美智代の顔を見ながら続けた。
「2年1組の騒動について、ある有力者からね。校長自ら状況を確認の上、とにかく穏便に済ませるようにって」

「ちょっと薫、どういうこと?」
 美智代の顔から、余裕の表情が消えた。
「まさか……」

「時間稼ぎに騙されたフリしてたのよ。聡美ちゃんが私を裏切るはずないじゃない」
 薫は淡々と言った。
「ま、本当に裏切られたって自分にも言い聞かせて、演技してたけどね」

「ふーん、やっぱりそうだったんだ」
 由美は相変わらず、余裕の表情だった。
「危ないなあ、薫に騙されかけてた」
 その手には携帯端末が握られていた。
「でも、どうかしらね。聡美ちゃん、無事に帰って来られればいいんだけど」

 薫の表情に戸惑いが見えた。まさか、由美に読まれていた……? 薫は慌てて、教室の窓から顔を出した。
「聡美ちゃん! 早く戻って来て!」
 え?と不思議そうに振り返る聡美の顔が見えた。

 ――――☆☆☆――――☆☆☆――――☆☆☆――――

 次の瞬間。ジリリリリッッ!、と校内中に非常ベルが鳴り響いた。
「これから、臨時避難訓練を開始します! 全員、校庭に避難を開始してください!」

「きゃ、きゃあ!」
 聡美は悲鳴をあげ、その場にしゃがみ込んだ。後ろ手に縛られているため、裸身を手で隠すことはできない。その間にも、耳をつんざくようなベルが鳴り続けていた。
(どうしよう、全校生徒が出てくる!)
 けたたましいベルの音に思考がまとまらなかった。教室に戻ろうとしたら、絶対に他のクラスから避難してくる生徒に見つかってしまう……もう、今から校舎内に戻ることはできない……では、どうすれば?

「逃げて、聡美ちゃん!」
 ベルの音の中、馴染みの声が小さく聞こえた。薫の声だった。
「ごめん、絶対に助けるから! 今は逃げて、どこかの陰に!」

(そうだ、逃げなくちゃ!)
 親友の声を聞いて、聡美は少し冷静さを取り戻した。

 鳴り続けている非常ベルの音、生徒達の騒ぎ声、各クラスの教師が張り上げている声、が聞こえる中、聡美は落ち着いて考えた。
 幸い、校庭での体育は、今の聡美から距離があるコートでバスケの試合が行われているだけなので、こちらに注目する生徒はほとんどいないだろう。他のクラスの教室では、避難訓練にあたって、まずは教師が整然と退出するよう指示をしている……少しだけ、校舎の外に出てくるまでには時間がある筈……少し危険だけど、体育の授業中の生徒達に見つからないように近くの陰に移動して、避難する生徒たちが教室から出てくるまでの間に、どこかに隠れるんだ。避難訓練が終わったら、2年1組の教室に戻ればいい……

 敢えて楽観的に考えてみたが、ふと現実に戻って聡美は顔をひきつらせた。もし、隠れようと走っている最中に生徒達が出てきてしまったら? バスケのボールがこっちに転がってきて注目を集めたら?……そもそも誰にも見つからない場所なんてあるのか?……もし見つかったら、この状況をどう説明するの?……後ろ手に縛られて胸も股間も尻も隠せず、首からは携帯端末をぶら下げている姿を……下手に移動せず、ここで木の陰に隠れたままの方が良いのではないか……

『早く逃げて!』
 首から下げた携帯端末から、切迫した声が聞こえた。薫の声だ。
『そこじゃあ見つかるわ! 体育館の裏よ!』

 臨時避難訓練のベルが鳴り始めて、二十秒程が経っていた。バスケをしている生徒達もとりあえずプレーを続けているが、少しそわそわしているようだ。
「あと2分で中断するぞ!」
 体育教師の声が響いた。続いて、
「よーし、それじゃあ、順番に行くぞ! 無理に前に行こうとしないこと!」
 と、あちこちの教室から教師の声が聞こえてきた。はーい、とやる気のなさそうな生徒達の声が続いた。ガタガタと椅子を引きずる音が響く。

 聡美ははっと眼を見開いた。いくら木の陰に隠れても、数百人の生徒達が一斉に出てきたら、見つからずにすむなんて絶対あり得ない。でも、体育館の裏なら、誰にも見つからないかもしれない。公道に接してはいるけど、植樹されているから、まず大丈夫……
(よし、行くわよ、急がないと!)
 聡美は勇気を振り絞って立ち上がった。辺りを見ると、まだ校舎の玄関から出てきている者はいない。全裸後手縛り姿のまま、聡美は早足で歩き始めた。

 雲一つない晴天の下の学校で、不思議な光景が展開されていた。一人の女子生徒が、裸で後ろ手に縛られた姿で、校舎の周囲をそろそろ歩いている。少し腰を屈めて不安そうな顔……お椀型の乳房、淡いピンクの乳輪、ぷりんとしたお尻が陽光に照らされて輝いている……非常ベルは鳴り止み、速やかな校庭への避難を促すアナウンスが流れていた。2年1組の生徒達も避難を開始したようで、からかい声は聞こえなくなっていた。

 体育館に着くまでには、校舎の壁際をあと40メートルほど移動しなければならない。その間、校舎から校庭に出るための2つの玄関を通ることになる。教室から出てきた生徒達に見られたら終わりだ……後ろ手縛りのままで早歩きをしながら、緊張に心臓が喉から出そうに感じていた。

 どやどやと教室から出る足音、わーきゃーとはしゃぐ声、教師の叱責の声が校舎の中から響いてくる……混然となったざわめきは、皆がまもなく外に出て来ることを知らせていた。
(きっと大丈夫、落ち着いて……)
 絶体絶命の危機にありながらも、聡美は必死に冷静さを保とうとした。焦って足が絡まって転んだりしたら終わりなのだ。慌てず、でもできるだけ早く……
 聡美は全裸の早歩きを続け、中央の玄関を通過した。幸い、誰にも見つかることはなかった。あと一つの玄関を無事に通れれば、体育館の裏まではすぐに行ける……聡美は必死に前を見つめた。

 約十秒後、聡美はついに体育館近くの玄関口まできた。ここを通過したら、コの字型の校舎沿いに左折して、階段を下りて、体育館の手前で右に曲がれば……大丈夫、行ける、この玄関さえ通過できれば……楽観的に考えて、足を早めた。
 2つ目の玄関も誰にも声をかけられることなく、通過することができた。難所をクリアして安堵した聡美は、そのままそろそろ歩き、校舎沿いに左折した。目の前には、校庭につながる下り階段が見える。お尻を風が撫でて、聡美は小さく震えた。

 その時、後ろからバタバタと靴音が聞こえてきた。1年のクラスの生徒達だろう。お前ら、走るな!と教師の怒号が響いた。
(いやっ!)
 聡美の目が見開かれた。教室から出た生徒の一部が予想よりも早く来てしまった。そのまま走ってくれば、後ろ姿を見られてしまう。そろそろ歩いていた聡美は、大股で走り出した。両手を後ろで拘束されているのでバランスを崩しそうになるが、必死にこらえた。
 バタバタバタ……その音はどんどん鮮明になってきていた。目の前の下り階段をカタカタカタ、と急いで下りていく。お願い、もう少しなんだから、私を見つけないで……

「おい、あれ何だ!?」
「あれって何だよ?」
「そっちじゃなくて、階段の方! 女が裸で走ってたぞ」
「え、ほんと?……いないじゃん」
「いや、あっちの方に走っていったよ」
「嘘ならもっとうまくつけよ」
「なんだ、妄想か」
「お前ら、走るなって言ってるだろ! よそ見するな! 早く校庭に行け!」
「いや、本当だって……」
 聡美の後ろ姿を見た生徒は、名残惜しそうに体育館の方を眺めながら、首を振って校庭に歩いていった。

 なんとか体育館の裏に来た聡美は、心臓が破裂しそうなほどにどきどきしていた。
(ここでじっとしていれば、きっと大丈夫……)
 聡美は今、体育館と裏通りの間の、狭い体育館裏の大きな木の陰に立っていた。周囲から完全に見えなくなっているわけではないので、生きた心地がしないのは変わらなかった。避難訓練が終わるまで、20分はかかるだろう……後手縛りの全裸のまま、聡美は不安げに辺りを見回した。

 3分後。ほとんどの生徒達が校庭に出てきて、わいわいがやがやと賑やかになっていた。しばらくするとそのざわめきが静まり、整列を促す教師たちの声も小さくなった。
「えー、みんな、スムーズに避難できたかな。今日は初めて、抜き打ちで避難訓練を行いました。地震や火災などの災害はいつ起きるかわかりません……」
 マイクを通した校長の声が校舎に反響した。

(よかった。みんな校庭にいるのね。あとは、どうやって2年1組に帰るかを考えるのよ)
 体育館裏の木の陰に隠れて立ちながら、聡美はそっと周囲の様子を窺った。生徒がこちらに来る気配はないし、網フェンスの向こうの道路を歩く人影もない……きっと大丈夫……自分に言い聞かせながらも聡美の足はカタカタ震えていた。この姿をもし誰からに見られたら、と思うと生きた心地がしなかった。

 避難訓練の段取りは、まずサイレンが鳴って、生徒達は教室で待機した後に順番に校庭に出て整列し、校長先生の話を聞き、消防署員の話を聞き、消火訓練をして終了だ。その後、生徒達はクラス毎に教室に戻る……その時がチャンスだ、生徒達が教室に戻った時、少しだけ校庭は無人になる。その時、腰を屈めてダッシュして校舎の中に入って、2年1組まで行けばいいのよ……聡美は自分を励ましながら、息を潜めて耳をそばだてていた。

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