PART 1
「私、やっぱり引退させて頂きます。」
セーラー服の美少女のきっぱりした言葉に、田岡は内心頭を抱え込んだ。
3月28日。ここは中堅芸能プロダクション、田岡プロの会議室だ。田岡はそこで田岡プロナンバー1タレントの新藤英里子の引退を引き留めるべく、必死の話し合いをしていたのだ。しかし、英里子の決意は今度ばかりは固いようで、翻意はほとんど無理のように思われた。
田岡は必死に作り笑いを浮かべて猫撫で声を出す。
「そうかい、勿体ないなあ。久美ちゃんもほんと、残念がってるんだけどな。」
西野久美は英里子のマネージャーで25歳だ。一時はアイドルとして売り出したが、特に売れることもなく一年で引退し、今はマネージャーとして田岡に雇ってもらっている。
「そのことは私も久美さんから何度も言われたんですけど、やっぱり高3の一年間は勉強に専念したいんです。本当に申し訳ありませんが、引退させて下さい。できるだけのことはしますから。」
英里子は辛抱強く引退の理由を説明した。一年間世話になった田岡に迷惑をかけるのは悪いと感じているので、できるだけ誠意を尽くした形でやめたいと思っているのだ。同じような会話がすでに1時間近く続いていた。最初に出されたコーヒーはすっかり冷めてしまっている。
ここまできっぱり拒絶されては、この場は引き下がるしかなかった。
「分かったよ。だけど、入っているスケジュールは頼むよ。」
とにかく、少しでも時間を稼ぎたかった。
「ええ、もちろんです。だけど、この前このお話をしてからはもう仕事は受けていないはずですから、明後日のFTVが最後なんですよね。」
英里子が念を押す。これまで、何だかんだと理由をつけられて引退を先延ばしにされていたので、確認せずにはいられなかった。
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結局、話し合いでは英里子を引き留めることはできなかった。英里子にとっては、この一年で築いたアイドルとしての名声もお金も、大して意味を持っていないようであった。それよりも、有名人となったことで生じる様々な煩わしさが想像以上であることに嫌気が差していたのだ。
また、英里子の天性の性格の良さも芸能界でやって行くにはハンディであった。田岡から見ても、育ちの良い英里子には、オンエア時には仲良さそうに話していても、内心では嫌い合っている、というような世界にはどう考えても向いていなかった。そう考えると、英里子が辞めると言い出したのは確かに納得がいくことであるとも言えた。
しかし、そう思ったところで、田岡には英里子の引退を容易には受け入れられない事情があった。中堅プロと言っても、田岡プロで稼げるタレントは現在、英里子だけだと言っても過言ではなかった。英里子のおかげで、夜逃げ寸前だった田岡プロの経営はこの一年で急速に建て直ってきていた。
そうは言っても、田岡プロの抱える借金はまだ膨大なものであり、今、英里子に辞められてしまったら、奇跡でも起こらない限り、再建は困難を極めることが予想された。その場合、田岡はやはり夜逃げを余儀なくされることだろう。危機脱出のため、英里子を一気にトップアイドルにして稼がせ、さらには抱き合わせで他のタレントを売り出していこう・・・と考えていた矢先の誤算だった。
また、英里子には言わないつもりだが、英里子の将来性に注目したFTVからは、今後3年間の「専属契約」のオファーが来ていた。それは、今後3年間はFTVの許可なしに他局の番組に出演させない代わりに、FTVのドラマの主演を少なくとも3回はさせ、その他バラエティ番組にも多数出演させることを約束するというものだ。また、その契約料も莫大なものだった。まさに破格の条件だ。この一年でCM10数本に出演し、秋の連続ドラマでヒロインの妹役として出演し、ヒロイン以上の人気をあっと言う間に得てしまった英里子の実績を考えれば、視聴率競争に明け暮れるTV局としては当然の判断でもあった。
田岡としては、その契約金が何としてでも欲しかった。もちろん英里子にそのことは言わず、全て借金の返済に充てるのだ。しかし、そのためには少なくとも3年間は英里子が引退しないことを保証しなければならないし、これまでのようなわがままも許されなくなる。つまり、水着になることやキスシーンを拒否するようなタレントのままでは困るということだ。
しかし、その2点をクリアすることは今となっては殆ど絶望的になってしまった。(どうしたらいいんだ・・・・どうしたら?)一人深夜まで考え込む田岡だった。
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一方、英里子は引退を今日こそははっきりと引退を宣言することでき、肩の荷が降りた解放感で一杯だった。自分の部屋で久しぶりにゆっくり布団に入って、ゆったりした気持ちでいろいろなことを思い浮かべる。
(本当に、芸能界なんてもうたくさんだわ。自分の人気のためなら他人はどうなってもいいって人ばっかりなんだから。それに、男はみんなスケベばっかり。いつも私の胸とかお尻をじっと見ていたわ。田岡さんは、何かあると、すぐにミニスカート穿かせたり、ビキニにしようとしたりするし。)
カレンダー撮影の時に必死に抵抗して8月の写真も水着ではなく、Tシャツにしてもらったことを思い出した。(あのときは久美さんにもさんざんしかられたっけ、プロとしての自覚が足りないって。だけど、人に体を見せるのがプロのタレントだって言うなら、私はお断りだわ。人前で裸みたいな格好するなんて恥ずかしいこと、冗談じゃないわ)
その時の衣装は、水着といってもごくおとなしめのワンピースだったが、純情な英里子にとっては耐え難いものだった。
それに、ファンからの熱狂的な応援も英里子にとっては苦痛の元であった。暖かく応援してくれるファンは嬉しいが、どこのイベントにも追っかけて来て、写真を取りまくるようなファンには閉口させられた。
(だけど、どうしてファンの人ってそんなに夢中になれるのかしら。私のほんのうわべだけしか知らないくせに。やっぱり、外見だけなのかしら? そうだとしたら、きっと田岡さんみたいにスケベな気持ちで見ているに違いないわ。本当に嫌だわ)
イベントの時に最前列に陣取って、露骨に英里子の下半身をねらって撮影しまくるカメラ小僧達の顔が浮かんできて、英里子はうんざりした。
布団の中で寝返りをうち、目をつぶる。
(ま、あと一回だけお仕事すれば終わりだもんね。そしたら普通の女子高生に戻って遊べるんだわ。受験勉強も本気でしなくっちゃ)
英里子の実力ならもう少し頑張れば国立大も不可能ではなかった。また、それほどの知性を持つ英里子から見ると、芸能界の連中との会話はレベルが低すぎて苦痛の種であった。
時計はもう12時近くを指していた。すっかりまどろんで、眠りかけたとき、英里子の携帯が鳴った。(もう、誰よ、今頃)そう思いながらも英里子はベッドの脇に置いておいた携帯を手に取った。発信番号を見ると、事務所の携帯の番号だ。田岡か久美だろう。
「はい」
やや愛想の無い声で出てしまった。
「あ、英里子ちゃん、起きてた? 私、久美」
電話の向こうからは、あっけらかんとした声が聞こえてきた。久美はいつもこんな感じだった。普通、売れっ子アイドルの付き人だったら、もっとタレントに気を使うものなのだが。
「いえ、大丈夫です。」
「やっぱりね、私、思うんだけど、今引退することは無いんじゃないかしら? 何か、FTVから月9の連ドラのヒロインの話も来てるみたいよ。」
後半の言葉はやや意外だった。
「え、本当ですか?」
既に引退を決意している英里子だが、つい反応してしまった。芸能界に入って分かったが、一年に何百人もアイドルがデビューする中で、連ドラに出られるだけでも非常にラッキーなことなのだ。それなのに、毎回高視聴率を取っているFTVの連ドラの主役になれるなんて・・・。確かに有名になりたいのなら、飛び上がって喜ぶ話に違いないし、そのためにはどんな犠牲でも払うというタレントがほとんどであろう。
「そうよ。今度からはギャラだってめちゃくちゃアップするわよ。逃す手はないでしょ。」
英里子の声を聞いて、久美は脈ありと早合点してしまい、余計なことまで言ってしまった。
「でも、私、もう決めていますから。申し訳ありませんが、その話もご遠慮させて下さい。」
お金の話が出て、一瞬興味を示した英里子だったが、気持ちは急激に冷めてしまった。人気やお金ばかり気にしているドロドロした世界が本当に嫌だったのだ。今度はきっぱりした口調で意思を告げた。
「え、そう、ほんとに? じゃあ、最後に写真集だけでも出すっていうのはどう? ヌードになってくれれば、2百万部は売れるわよ。」
久美がまた口をすべらせた。あまり人気が出なかったにしても、元アイドルだけにその気持ちが分かるであろう、ということで英里子のマネージャを任された久美だが、それは全くの逆効果だった。自分が努力をしても成功できなかっただけに、人気やお金に興味を持たないタレントがいる、ということがどうしても理解できないのであった。
「そんなこと、絶対に嫌です。もう遅いので失礼します。」
あまりの馬鹿馬鹿しさに、さすがの英里子もカチンと来て、一方的に電話を切ってしまった。(だから芸能界って嫌い、みんな、お金のことばっかり!)と心底嫌気が差していた。
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4月3日、日曜日。英里子にとって最後の仕事の日になった。(いよいよ今日で最後だわ。一年かあ、長かったなあ。いろいろ嫌なこともあったけど、ま、いい経験になったわ)そんなことを考えながら事務所に向かう英里子であった。
午前9時。英里子と田岡、久美の4人はFTV入りした。今日出演するのは12時からの情報エンターテイメント系の番組で、今日スタートの新番組だ。
メインキャスターはお笑いあがりの人気タレント、中川司郎だ。中川は好感度ランキングで毎年3位以内に入るという安定した人気を誇っており、業界でもその性格の良さで皆に慕われていた。彼を起用した時点で、番組の成功はほぼ約束されたといっても過言ではなかった。その初回のゲストに招かれたのだから、英里子に対するFTVの評価は最高クラスということになる。(中川さんとの仕事は初めてね。期待に応えるように頑張らなくっちゃ。)英里子は緊張に少し身を固くしていた。
10時。控え室で待っていた英里子達のところにプロデューサーの立花が訪ねてきた。プロデューサー直々の訪問に4人は緊張する。
「すみません、そろそろ打ち合わせをしたいのですが・・・」
慇懃な口調で立花が言った。
「そんな、立花さんがわざわざいらっしゃるなんて、恐縮です。」
田岡は本当に恐縮していた。田岡のような弱小プロにとっては、FTVのプロデューサーと言えば絶対の存在だ。呼び出しなど普通はADがすることなのだからあまりにも恐れ多かった。
「いえ。それだけではなくてですね・・・」
立花が言いにくそうに切り出した。
「実は、中川が体調を崩しまして、今日は出演できないということになりまして・・・ 急遽今日だけ西山達也にピンチヒッターをお願いした次第でして・・・何卒ご了承下さい。」
「もちろん結構です。確かに中川の番組の初回にうちの英里子を出していただけるということで期待はしておりましたが・・・ しかしいきなり代役とは立花さんも大変ですね。」
田岡が揉み手をしながら即答した。そんなことで立花に貸しを作れるなら安いものだ、とでも思っているのだろう。
しかし、英里子は作り笑いを浮かべて頷きながらも、内心は困惑していた。(えー、西山さん? いやだなあ・・・)英里子は西山が嫌いであった。2,3回一緒に仕事をしたことがあったのだが、いつも卑猥な冗談を飛ばし、英里子の体をスケベな眼で舐めるように見ていた。最後の時には冗談のふりをしてお尻に触って撫で回してきたので思わず睨んでしまったくらいだ。(ま、1時間我慢すればいいんだし。番組終わったら捕まらないようにすぐ帰ろうっと)と自分を慰める。
急遽キャスターが変わるという混乱はあったが、打ち合わせは特に問題なく進んだ。出演者は5人で、英里子以外は皆お笑い系タレントだ。西山はさすがにベテランで、急の仕事にも慌てることなく、進行のポイントを的確に押さえていた。しかし、英里子を見る眼は相変わらずだった。むしろ今までに増してにやにやしているのが感じられた。
「ねえ、英里子ちゃん。その衣装も可愛いけど、どう? いっそのこと水着で出演、なんてのは? ほとんどヒモのビキニとか。」
英里子の潔癖性を知っているのに、西山はわざとからかって言った。お笑いタレント達がゲラゲラ笑う。
「いいえ、この衣装で結構です。」
キッとなった英里子は切り口上で断った。女を性的興味の対象としか見れない連中と一緒に仕事をするのはこの上なく不快だと思った。
「ごめんごめん。だけど、そんなことでいちいち恥ずかしがって怒ってるようじゃこれから大変だと思うよ。」
西山は意味ありげな笑みを浮かべながらも、意外にもあっさり引き下がった。お笑いタレント達と田代、久美、田岡は好奇心と哀れみが混じったような眼で英里子を見つめていた。
西山が言った「これから」がわずか2時間後のことであることを知らないのは英里子だけであった・・・
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