PART 4

 最初に部屋に入ってきたのは、中村千香だった。責任感の強い千香は、いつも早めに来て、社員の机を拭いたり、お茶の準備をしたりしていた。当然自分が一番早いと思っていた千香は、理絵の姿を一瞬、表情を強張らせた。慌てて挨拶をする。

「あ、加藤さん、おはようございます。今日は早いんですね。」
そして、一瞬間を置いてから、
「あの、昨日は大変でしたね。」
と視線を落としながら言った。千香なりに昨日の責任を感じているのだろう。理絵の彼の話をついしてしまったのが、あの事件の引き金になってしまったのだから。

 「おはよう、千香ちゃん。昨日のことは気にしないで。あの酔っぱらいのくそ親父なら、結局ああいうことをしたに違いないのよ。」
理絵は努めて優しい声を出した。平静を装うことに成功して、内心ほっとしていた。(そうよ、こんな感じで、大したことが無かったようにすればいいのよ。)
「そうそう、あの後、どうなった?」
やはり気になるので、同僚達が来る前に状況を把握しておきたかった。

 「本当にごめんなさい。」
そう言いながら、千香も安心したように笑顔を見せた。今度は屈託無く話始める。
「あの後はですねぇ、大変だったんですよぉ。佐藤さんが暴れちゃって。何だ、加藤のあの態度は!とか怒鳴りちらしちゃって。」

 「うんうん、それで?」
それで課長の黒木や係長の松本はどうしたのだ。ちゃんと私を庇った上でその場を収めたのか、理絵は気になった。他の者が来る前に、要領良くポイントを話して欲しかったが、千香が相手ではそれは難しかった。知りたいことをこちらから聞いてしまおうと思った。
「課長とかはどうしたの? ちゃんと佐藤さんを叱ってくれたのかしら?」

 「うーん、その逆、なんですよねぇ。もう平謝りって感じで、それでも佐藤さんが収まらないから、黒木さん、土下座までしちゃって・・・」
自分の責任では無いのだが、千香は申し訳なさそうに続けた。
「加藤の失礼の分は、本木と中村に挽回させて下さい、とか言って、両隣にべったり座らせちゃって。」
そこまで言うと、反応を窺うように、上目遣いをした。

 (な、何ですって! さ、最低、最低だわ! ・・・それにしても洋子さんと真奈美さんが私の代わりに・・・どうしよう、私を恨んでいるのかしら)理絵は悪い予感を覚えながら、
「うんうん、それで? 洋子さんたちはどうなったの? ・・・・ひょっとして、触られたり・・・した?」
と続きを促した。

 「そうですねぇ。あんなにひどくは無かったけど、・・・やっぱり、ちょっと、胸とかお尻とか、触られちゃったみたいです。」
あんなにひどくは無かった、という言葉に理絵は恥ずかしさがこみ上げたが、黙って頷いた。理絵の恥じらいに気付かず、千香は続けた。
「私と昌子ちゃんも、ちょっと・・・・だけど、そんなことしといて、『やっぱり理絵ちゃんの胸が一番だな』とか言ったんですよ。ひどいですよねー。」

 最悪の展開だ、と理絵は内心頭を抱えた。これで洋子達の自分に対する感情はどうなったか、考えるまでも無かった。本質的に悪いのは佐藤達なのだが、彼女たちの怒りの矛先は自分に向けられるに決まっていた。(それでなくても仕事がしにくかったのに・・・)
「それで、接待が終わってから、課長は何か言ってた?」
せめて何かフォローをしてくれなかったか、祈るように聞いた。

 「ええ、言ってましたよ。今日の接待は加藤さんのおかげでひどいことになったけど、何があったかは、社内では絶対にしゃべらないこと、とか。」
「え、ひどいこと、って?」
「えーっと、職場放棄、とか言ってました・・・・私は当然だと思いましたけど。」
さすがに千香も言いにくそうだった。

 黒木のあまりの冷たさに理絵は絶句した。箝口令を敷いたのも、理絵の恥を隠すと言うよりは、接待という業務を円滑に遂行できなかった自分の失態を隠したいということなのだろう。
「他の人は、何か、言ってた? 松本係長とか、大友係長とか、三宅さんとかは?」
誰か骨のある男はいないのか、という理絵の思いもあっさり裏切られた。

 「うーん、特には何も・・・・あ、結構、あの・・・理絵ちゃんの胸って、大きいな・・・とか。」
悪気は無いのだが、千香は言わずもがなのことまで言ってしまう癖があった。

 理絵は呆れ返って黙り込んでしまった。(よーく分かったわ。結局、男なんて、そんな目でしか私を見ていなかったのね。こうなったら、仕事で見返してやるしかないわ。頑張れば、もう一年で係長なんだから。)
 恨むのではなく、仕事で復讐しようと考えるところが、いかにも自信家の理絵らしかった。

 そう思っていると、社員達がばらばらやってきた。中には松本もいた。松本は理絵の顔を見ると、さすがにばつが悪そうに目を逸らしながら、
「おはよう。」
と挨拶して隣の席に座った。理絵も何と言って良いか分からず、曖昧な返事を返すのが精一杯だった。昨夜の痴態を思い出されているかと思うと、やはり恥ずかしくて堪らなかった。まともに眼を合わせることができず、頬が赤くなるのを感じた。

 大友と三宅の第五課組はそのしばらく後に来たが、やはり理絵に声をかけることは無かった。一言言ってやろうと思っていた理絵もやはり何も言えない。大友達がこちらに来ないのは理絵にとっても好都合だった。その後、始業時間ぎりぎりにやってきた洋子と真奈美は、理絵を見て意味ありげな笑いを浮かべながらも、声はかけずに自分の席に着いた。

 (このまま、何もなかったようにしていれば、みんな、忘れてくれるかしら・・・)理絵らしからぬ後ろ向きの思考に捕らわれた。24歳にしては清純な理絵にとって、あのような恥ずかしい体験はできることなら忘れてしまいたかった。

 ただ一人、課長の黒木だけが始業時間を過ぎても現れなかった。係長の松本によると、黒木は営業部長の広田祐二と共に、人事部に呼ばれているらしいとのことだった。当然ながら、第一課の皆が浮き足だった。この時期に、一体うちの課に人事が何の用があるのか、第一課のメンバーはその話題で持ちきりになる。皆、自分に関係あるのか無いのか、いい話なのか悪い話なのか、そればかりが気になっていた。特に、第一課の平社員で理絵の先輩にあたる高木一郎、原田貴之は自分の係長昇進の話ではないかとそわそわしているのが端から見てもよく分かった。

 ただ、理絵だけはやや違うことを考えていた。理絵が思ったのは、黒木が転勤するのでは無いか、ということだった。黒木は確かに仕事の業績だけは上げていたので、上の受けはいい。時期としては異例だが、部長代理へ昇進しても不思議では無い。第一課の他の者−松本、高木、原田−は失礼ながら異例の昇進をする程の人材では無い。

 理絵がそこで気になったのは、次の第一課の課長が誰になるか、ということだった。係長の大友がそのまま課長になる、というのは理絵にとって望ましく無かった。大友は男尊女卑の意識が強いタイプで、今までもほとんど仕事を回してくれたことがなかったのだ。また、部下を思って守ってくれるタイプでは無いことは昨晩実証済みだ。しかし、FJEの人事はそのような棒上げが多かったため、理絵は憂鬱になっていた。
 

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 しかし、午後の緊急打ち合わせで黒木の口から出た言葉は、皆の予想と期待を全く裏切るものだった。黒木は皆の顔を見合わせてから、その視線を理絵に固定して言った。
「えー、加藤君の係長昇進が内定した。急な話だが、加藤君には来週月曜からの係長研修に参加してもらい、再来週からは係長として勤務してもらうことになる。部署については正式にはまだ決定していないだろうが、おそらく今のまま、第一課になると思う。おめでとう、加藤君。」
一気にそう言い切った黒木は、煙草に火をつけた。

 その木曜日と翌日の金曜日は慌ただしいうちに過ぎていった。まさか自分が係長になるとは夢にも思っていなかった理絵は、何も準備していなかったのだ。「特別育成コース」のうちで、確かに今回係長に昇進する者はいたが、僅か10名に過ぎず、皆国立大卒だった。

 取引先とのアポの変更、仕事の引継、研修の準備に忙殺された。特に気を使ったのが、高木と原田への引継だ。入社年次では2年も3年も下なのに、先に係長になってしまう理絵に対し、二人がいい感情を持つ筈が無かった。再来週からは自分の上司になるであろう理絵にそのような感情を露骨に見せることはもちろん無かったが、それでも無意識までは押さえることはできない。理絵は、極力彼らの神経に障らないように、しかし的確に引継の依頼をしなければならなかった。

 同僚達の羨望と嫉妬の視線を一身に浴びながら、週末の二日間はあっという間に終わった。
 

 理絵の昇進が急に決まったのは、その実力だけが理由ではなかった。
 昨晩、理絵が羞恥の接待をさせられていたころ、M銀行とFJEの幹部との会合が赤坂で持たれていた。その席で、FJE側が理絵の話を出しておだてたところ、加藤が、
「そう言えば、FJEさんでは、今度からエリート養成コースを設けたらしいですなあ。何でも、理絵の同期からも係長になるものが出るとか。いやぁ、素晴らしい決断だ。ま、うちの理絵はそこまではいかないんでしょうが。」
と言った一言がきっかけだった。

 冗談めかした言い方ではあったが、交渉の山場にあったFJEにとって、何事も軽視することはできなかった。早速、理絵の情報が検討され、内々の条件としていた国立大卒、という条件は満たしていないものの、能力的には係長に昇進させても問題が無いだろう、という結論に達した。人事部長は例外を作ると他の社員への影響が大きいという理由で、営業部長は営業部内での調和が乱れて志気が落ちるという理由で反対したが、最終的には社長の決断で急遽の昇進が決定したのだ。

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 係長研修は伊豆の研修センタで一週間の合宿形式で行われる。今回の参加者は約100名で、女性は理絵以外に2人いたが、いずれも三十代前半だった。理絵はできるだけ目立たないようにグレーのスーツを身に纏っていた。下はもちろんパンツだ。しかし、いくら努力しても、理絵の若さと美貌は濃紺のスーツの集団の中で輝かんばかりに目立っていた。

 やがて、同期の集団を見つけた理絵は、ほっとしたように駆け寄っていった。
「おはよう、小山君」
と声をかける。

 「あれ、加藤さん? 加藤さんも今度昇格したんだ?」
声をかけられた小山がやや驚いたように言った。他の男達も一様に意外な表情だ。2日前に急遽決まったことは同期の誰も知らなかったようだ。理絵も何となく言いづらく、誰にも教えていなかった。

 「ええ、そうなの、よろしくね。」
理絵はややかちんとしながら答えた。当然自分たちだけが昇進する、といった表情が気に障ったのだ。以前から、小山を初めとする国立大組が持つそのエリート意識が理絵はどうしても鼻について仕方なかった。(まあ、いいわ。研修の成績で見返してやるから)

 理絵にとって、試練の研修が始まった。


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